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明智光秀を霊視、本能寺の変の真相に迫った。黒幕はいるのか?

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明智光秀を霊視し、本能寺の変を起こした真相を探ってみました。

個人的見解を含む記事です。

ご了承ください。

まず、明智光秀の人物像についてお話します。

どんな人物像かというと、

正義感が強く、権力に影響されずに自分を通す性格が見えました。

自分を曲げない信念の強さを持っていますが、気性は荒くはありません。

文武共に実力を持ちながら、戦を避け、領民の平和を常に考えていました。

また、思いやりがあり愛妻家でした。

明智光秀の生涯を描いたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれている人物像が当て嵌まるという感じです。

ではなぜ、穏やかな性格の明智光秀が歴史上最大のクーデータと言われる本能寺の変を起こし、君主の織田信長を討ったのでしょうか?

それには幾つかの理由があるようです。

本能寺の変を起こした要因は1つではなく、複数の理由が重なり、決心をしたように思われます。

ネット上などでは色々な説があり、その数は50説以上にもなります。

中には、かなり的を得ているものもあるようです。

どの説が有力なのでしょうか?

明智光秀を霊視し、受けた波動から的を得ている要因を3つ挙げてみます。

本能寺の変を起こした理由【1】

暴君討伐説(ぼうくんとうばつせつ)が、本能寺の変を起こした最大の理由と感じました。

つまり、本能寺の変は、信長の暴走を阻止するために起こしました。

信長は素晴らしい武将でありましたが、一方で、気性が激しく、激情することが多く、天下統一を目指す過程で数々の残虐な行為を行いました。

比叡山の焼き討ちでは、僧侶はもとより、女子も容赦なく殺し、一向一揆では農民など数万を惨殺しました。

領民の平和を願い、無意味な血を流したくないと考える光秀は、これ以上、戦を増やしたくないという思いから、信長を討つことを考えるようになりました。

本能寺の変を起こした理由【2】

豊臣秀吉、徳川家康との共謀説で言われていることも、本能寺の変を起こした要因の1つです。

戦のない平和で豊かな国を造りたいというのが光秀の思いです。

「その実現のためにどうすれば良いのか?」と考え、秀吉と家康と手を結ぶことを思い付きました。智将らしいところです。

光秀と秀吉の関係は良好でした。

共に信長に仕え、色々と話せる存在でした。

同じ釜の飯を食った仲間でした。

現代の会社でいえば、お互いに力を持ち、いざという時に助け合える会社の同僚(幹部)という関係です。

だたし、プライベートも含めてすべての行動を共にするような親密ではなかったようです。

お互いの実力を認め力を合わせるも、普段は少し距離を保つ関係でした。

次、光秀にとり家康は、頼れる後輩という感じです。

考え方も性格も似ていて、年齢差はあるものの、同じ志を持つ同士でした。天下の平和を願っていました。

光秀は考えました。

そして、秀吉と家康と手を組み、戦のない平和な国造りの青写真は描きました。

その青写真は次の通りです。

1.奇襲し、信長を本能寺で確実に討つ

2.その後、京都で秀吉と落ち合う

3.自分は秀吉に討たれたことにし姿を消す

4.後の世は秀吉へいったん任せる

5.自らは出家する(天海となる)

6.家康を大将軍に育てる

6.家康を秀吉の後継者にする

7.天海として家康を支え、平和な世の中を造る

以上

この青写真の通りに動き、江戸時代が築かれたようです。

本能寺の変を起こした理由【3】

帰蝶黒幕説、これはとても的を得た説です。

本能寺の変の黒幕として、朝廷や多くの武将の名前が上がっていますが、真の黒幕は帰蝶(濃姫)のようです。

ご存知だと思いますが、帰蝶は信長の正室です。

その帰蝶がなぜ黒幕なのでしょうか?

信長と帰蝶との間に子供はいませんでした。子宝に恵まれませんでした。

信長の跡継ぎを生んだのは、側室の吉乃です。そして、信長は吉乃のいる生駒にいることが多くなりました。

信長の気持ちは帰蝶から吉乃へと動いていきます。

帰蝶が正室なのか、吉乃が正室なのか分からない状態となります。

帰蝶がそれを良く思いません。

帰蝶は悶々とする日々を過ごしました。

戦国時代は複数の妻を持つことは認められていました。

しかし、釣った魚に餌をやることなく、よその魚へ餌をやるのような信長の行動に不満がたまっていきました。

信長と帰蝶の関係は悪化する一方です。

帰蝶は政略結婚をさせられた上に、自分の夫は他の女のところへ…

自分の生い立ちを恨んだこともあったようです。

その帰蝶の心の支えになったのが光秀でした。

光秀と帰蝶は従妹関係でもあり、幼い頃からお互いをよく知っていました。

また、政略結婚をさせられ、お家の都合に使われた帰蝶を可哀そうに思っていました。

光秀は妻煕子を病気で亡くし、その後は帰蝶と親密になって行きます。

そんな中、信長は、光秀へ出雲と石見へ国替え(領地を替えること)を命じます。

「光秀の領地である近江と丹波が取り上げ、代わりに出雲と石見を与える」というものです。

あるいみ左遷とも取れます。

国替えともなれば、光秀と帰蝶との間に物理的な距離が広がります。

光秀は帰蝶のことも考え、本能寺の変を起こすことを決意しました。

本能寺の変を起こしたその他の要因

本能寺の変を起こした3つの重大な要因をご紹介しました。

冒頭に述べたように、本能の変を起こした要因は複数あります。それが複雑に絡み合っています。

3つ以外の要因にも少し触れておきます。

光秀怨恨説について

光秀怨恨説についてお話します。

信長は逆上しやすい性格で、光秀は理不尽な思いを幾度かしました。

信長への恨みがまったくなかったわけではありません。

しかし、信長への恨みが直接、本能寺の変を起こす要因になっていません。

現代の会社でも良くある話です。

多くの会社員は社長や上司への不満を持っていると思います。

しかし、だからと言って、社長や上司を討つまで考える人は少ないでしょう。

会社を退社するというようなその他の方法で距離を置くのではないですかね?

光秀野望説について

光秀野望説について触れておきます。

光秀には天下を取りたいという野望はありませんでした。

「天下取り争いこそが領民を不幸にする」と考えていたからです。

光秀は、戦がなく、領民が平和に暮らせる世づくりを考え、そのために「自分が何をすべきか?」と問いていました。

その答えを探り、信長を討つという結論に導かれたようです。

そして、信長を討つという答えが、自分の欲望なのか、天の意志なのか、そこを判別していました。

光秀は本能寺の変を起こす少し前(天正10年5月28日)に、愛宕山で行われた歌会に参加しています。

そして、次のように詠んでいます。

「ときは今 雨が下る 五月哉」

天に審議を問いて、「今、信長を討つ」と決心したのでしょう。

天正10年6月2日、本能寺の変が起きます。

以上

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