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明智光秀は天海となった?明智光秀の生存伝説は本当なのか?【霊視】

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【戦国武将霊視シリーズ】

(個人の見解を含む内容となりますのでご了承ください。)

天海は明智光秀だったのか?

早速、霊視をしてみました~(^^♪

結果は……、

私の見解は、

【天海=明智光秀】

です。

天正10年6月2日、明智光秀は本能寺の変で主君の織田信長を討ちます。

11日後、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、京都の坂本城へ向けて敗退する途中、伏見区の小栗栖において、落武者狩りにあったとされています。

農民に脇腹を竹やりで突かれ「もはやこれまで~」と切腹したと伝えられています。

どうやら、これはカモフラージュのようです。

偽装です。

本能寺の変の後に起こる争いを静めるための偽装です。

「主犯者が死亡すれば争いを終息しやすい」と考えたようです。

そして、明智光秀は本能寺の変の後も生き続けます。

僧侶天海となり、徳川家康と組んで江戸時代の繁栄に仕えます。

家康のブレインとなりました。

本能寺の変を起した理由は?光秀→天海への青写真

本能寺の変は、信長への怨恨が理由で衝動的に起こしたのではありません。

「天下統一という野望へ向かって暴走する信長を何とかせねば…」と考え抜いた末に起こしたようです。

>>明智光秀を霊視、本能寺の変の真相に迫った。黒幕はいるのか?

また、明智光秀は智将らしく、本能時の変後の世づくりの計画をかなり練っていました。

平和な世づくりを考え抜いた上で本能寺の変を起こしました。

また、本能寺の変は、光秀の単独ではなく、秀吉、家康も共謀者です。

信長死後→秀吉が世を治める→家康へバトンを渡す

とある程度、話がまとまっていたようです。

山崎の合戦は光秀と秀吉の戦いではなく、ミーティングでした。

光秀「予定通り、信長を討ちとった。後はどうする?」

秀吉「計画通り、私がいったん世を納める。」

光秀「気持ちに変わりがないなら、秀吉へ任せる。」

とこんな感じだったみたいです。

信長のまわりにいる多くの人は、信長の暴走を止めたくて、裏では手を結んでいました。

信長を討ち、領民が豊かに暮らせる新しい国づくりを目指します。

その中核にいたのが光秀です。

計画は、概ね、次のような感じです。

1.光秀は本能寺で信長を討つ。

2.その後、山崎で秀吉と落ち合う。

3.後継者を秀吉とする。

4.光秀は討たれたことにし、姿を消す。

5.光秀は僧侶となる。

6.光秀は家康のブレインとなる。

7.僧侶天海として江戸幕府を支える。

以上

光秀が天海だという裏付け

光秀が天海だという裏付けを13個挙げてみます。

【裏付け13個】

1.光秀を討ち取ったといわれる中村長兵衛という農民を誰も知らなかった。

2.さらされた光秀の首は腐敗が激しく、高い場所にさらされたので、本当に光秀であったのかは定かではない。

3.日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に明智の家紋である桔梗紋が使われいる。

4.日光に明智平と呼ばれる場所がある。天海が名付けたという伝承がある。

5.江戸幕府3代将軍の徳川家光の乳母は春日局である。春日局は光秀の重臣の斎藤利三の娘である。反逆者の関係者を乳母にするわけがない。

6.春日局は、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけたと伝えられている。

7.3代将軍徳川家光の「光」は光秀の名から取った可能性がある。

8.喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存している。光秀は鉄砲の名手であった。

9.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582)以後、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。

10.「東叡山開山慈眼大師縁起」によると、家康と天海がはじめて対面した際、昔から知っている間柄の人のように親しく語り合ったという。

11.京都の慈眼寺には光秀の位牌と木像が安置されている。天海の諡号(しごう)の「慈眼大師」と寺名が一致する。

12.大阪の本徳寺には光秀の肖像画があり「僧になって去っていた」という文字が残されている。

13.関ヶ原合戦図屏風には家康の近くに天海が描かれている。明智光秀だからこそ、戦に参戦していた。

以上

かごめかごめに隠された暗号

童謡「かごめかごめ」をご存知だと思います。

かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ

この童謡は江戸中期の文献に見られます。

歌詞の中に「天海と明智光秀が同一人物」という暗号が隠されていると言われています。

歌詞の解釈には色々とありますが、一説を簡単に説明します。

「かごめかごめ」

「かごめかごめ」は「囲め囲め」で、「囲んだ人に注目しなさい」という意味です。

「籠の中の鳥は」

籠の中の鳥とは天海(明智光秀)です。

籠目は竹で編むと六角形をしており、六芒星を表しています。

六芒星は、2つの正三角形を逆に重ねた形で、陰陽を表しています。

スピリチュアル的にいうと、陰陽を合わせた形は【真実】と【パワー】を意味しています。

つまり、「籠の中の鳥は真理に気付いていて、世の中を変えるパワーを秘めている。」という意味です。

また、江戸時代、罪人を護送するのに籠を使っていました。

本能寺の変を起こした謀反者とされている自分を罪人に置き換えています。

明智光秀の皮肉も含まれていると思います。

「いついつ出やる」

(真実が)いつ世に出るか?

「夜明けの晩に」

夜の終り、朝の始まりを意味しています。

「暗い世の中が終わり、明るい世の中が始まります。」という意味です。

「鶴と亀が滑った」

日光東照宮の建築物群や奥院では、鶴と亀が対になって飾られている所があります。

日光東照宮は天海の主導で建造されました。

「すべる」は「統べる」という意味を表しています。

さらに、明智光秀が統治していたのが敦賀(つるが)と亀岡(かめおか)です。

江戸時代を裏で統治しているのは、天海であり、明智光秀ということです。

「後ろの正面だあれ」

明智光秀の出身地の岐阜から日光の方向を見ると、後の正面は、明智光秀の肖像画を所蔵している大坂の本徳寺になります。

後ろの正面は明智光秀ということです。

光秀と天海の筆跡が異なると言われる件について

インターネット上には明智光秀と僧侶天海の筆跡を比べ、別人物と唱える説があります。

これに反論してみたいと思います。

天海を霊視してみました。

すると、天海として、2人、もしくは、3人の人物が浮かびます。

「いったい、どういうことなのか?」

直観が走りました。

【僧侶天海は一人ではなく、少なくとも二人いる】

これが私の見解です。

現代でも歌舞伎の世界などでは「襲名」があります。

先代の名前や地位や芸を受け継ぎます。

光秀も『天海』の名前を襲名したようです。

本能寺の変を起こした後、出家し、先代天海へ弟子入りし、修行を積んだようです。

そして、先代亡き後、天海という名前を襲名します。

天海の生年ははっきりしていませんが、100歳以上の長命であったとされます。

ちょっと考えにくい長生きですが、光秀が襲名したとすれば、このことも納得ができます。

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